クラシカロイドの主人公とは




クラシカロイドの主人公、歌苗と奏助。主人公の割には目立たない。むしろベトやモツが主人公であって、2人は導入のためのキャラクターなのではないか。銀魂でいうところの新八(メガネが本体という不遇のキャラクター)なのではないかと途中まで思っていた。
しかし、最終話まで観たところそうではない。「天才⇔凡人」と対になる存在というだけではなく、2人はそれぞれクラシカロイドと相補的に対になる存在であり、別々の役割を持っている。





1.音羽歌苗
暴れ回る感性を管理する理性

人は現実の世界にとどまるには制約を受け入れなくてはならない。制約とは他者でありルールであり、人間社会の中で生活を送るためにはなくてはならないもの。
自由な感性を理性でコントロールしようとしている状態が人間らしい状態といえ、音楽にもそれを当てはめている表現を12話でバッハがしている。
「ただ自由気ままに好き勝手暴れるだけでは動物と変わらん。音楽とは明確なる意思のもとにただ一点求めるべき先に向けて放たれる矢の如し。」
6話の暴走したムジークのように、理性と意思による制約無き感性は指揮者を失ったオーケストラのようになってしまう。
感性と理性がうまく作用し合ったときに調和のとれた人格、人生、物語、音楽が生まれる。
クラシカロイドにもそれは当てはまり、理性、意思による制約によって浮世にクラシカロイドをとどまらせておく糸の役割を歌苗は果たしている。
24話でバッハは歌苗を「優れた指揮者」と呼ぶ。

制約を互いに与えながら人間は生きている。誰しも指揮者になりうる。
制約を与える人間やルール(指揮者)が常に優れているとは限らない。とくに音楽が商品として求められるものを提供しなければならない世界では。(例、12話アルケー社の職員、モーツァルトの雇い主、24話聴く耳を持たず音楽を使い捨てる聴衆など。)
よって悪しき制約に抑圧され音楽は歪められ、それに音楽家はもがき苦しむことになる。
歌苗の管理する音羽館クラシカロイドに適度な制約を与え浮世にとどめる場と同時にその他の悪しき制約(優れぬ指揮者)から守る役割りを果たす。
リスト「だってここ居心地良いだもの」5話
バッハ「ここは確かに居心地が良いのかもしれない」12話

ちなみにバッハは音楽に対する悪しき制約を取り払い(音楽を売り物ではなく、人間そのもの、空気のような存在にする)音楽に対する制約を己の理性と意思のみの世界。つまり一人一人が自分自身の指揮者であり、他の者には制約されないものとして音楽が存在する世界を作ろうとしていた。

それぞれのキャラクターにも自由と制約の間で葛藤するエピソードがあるが、
(ベト9話、楽器や技術、難聴などハード面での制約。モツ20話、言わずもがな。など)
最終話ではクラシカロイド逹は皆、居心地の良い音羽館を離れて自立する。自らの目的のため制約と折り合いとつけ、受け入れる態勢にまでなる。(クラシカロイドの覚醒条件1)





2.神楽奏助
完成された不変の存在と未完全な今を生きる存在

物語が始まり、そして終わるときには変化が不可欠だ。問題の解決や、キャラクターの成長など。
しかし、過去の天才、楽聖逹であるクラシカロイドは既に完成された存在なので成長の物語は相応しくない。
クラシカロイドの覚醒は史実の人格と今の自身の存在を別の存在として捉え、新たな人生を受け入れて再出発することで覚醒している。クラシカロイドの進化は成長ではなく気づき、自覚、吹っ切れによって得られる。(クラシカロイドの覚醒の条件2)
9話ベト「誰の人生が終わったのだ。俺はまだ生まれたばかりだ」
20話モツ「17歳の恋人に会いに行く」「じゃあ…また」(過去の自分を、支え合う関係でありながら他者である『恋人』と呼ぶ)

一方、奏助は成長することができる今を生きるキャラクター。
9話のラストシーン、改造ギターモンスターをベトが奏助に返すシーン
奏助「こんなギター返されたって…」
ベト「音楽に必要なものは楽器でも技術でもない」
奏助「それって才能のことっすね」
そのとき奏助が導き出した答えにベトは答えない。
最終話には奏助はその時自分が導き出した答えとは違う答えを出す。
9話の中で奏助は
「路上ライブ、そういう地味なの趣味じゃないな」と発言している。
その後15話で自分の才能の無さを自覚し、その上で自力で曲を作り人前で演奏している。
そして最終話ではモンスターを持って再び9話と同じ場所に戻り路上ライブに挑戦する。
この奏助の成長には9話ではベト、15話ではモツと、それぞれクラシカロイドが深く関わっており、クラシカロイドは奏助を通して物語を進めて、世界を変えたことになる。つまり奏助はこの物語を進め終わらせる役割を持っている。

クラシカロイド逹は直接的に現実世界に変化をもたらすことはなく、人間を介して変化をもたらす。
最終話では直接宇宙人と会って世界を救うのは歌苗と奏助の二人であり、クラシカロイドは二人を介して世界を救うことになる。




3.『クラシカロイド』の主人公逹

奏助がいないとクラシカロイド忍たま乱太郎やごじゃる丸みたいになるのだが(終わりの無い物語)
本来、最も活躍するヒーローに与えられがちな重要な枠割りを場面で玄関のポーチで体育座りしているだけのキャラクターが持っているのが面白い。
逆に歌苗の役割は主人公としては珍しい気もする。

とても個人的な解釈だが、クラシカロイドという存在は過去の楽聖の分身というよりは、楽聖の残した音楽が人の形を手に入れたものという印象がある。
そして主人公の2人は私逹と同じ今を生きる人々。
この世には音楽に限らず創造物で溢れており、創造者が朽ちたあとも作品たちは私逹に語りかけ、私逹を通して世界を変える。目には見えないクラシカロイドが現実世界にも存在しているように思える。

私、自分自身は奏助と同じで、凡人であり、世界が大きく変わる瞬間も、きっと玄関のポーチかもしくはテレビの前で体育座りしているような人間だ。
だけれど、せめて現実世界のクラシカロイドの声をできるだけ聞き逃さないように生きていきたい。
さもなくば宇宙人と友達になって世界を救うチャンスを逃してしまう。





おわりに

異論は認める。
個人的な感想と考察なのであんまり信用しないでくださいね。
セリフ部分など自分の記憶頼りで書いているので正確じゃない部分があるかもしれません。
最初の方に銀魂の新八くんを例に挙げたのですが、実は自分、銀魂をちゃんと視聴できてません。(貧乏でHuluの支払いが滞って見れてない)ので、「あってます!」とか「新八はそんなんじゃねぇよ!」とか「メガネじゃねぇよ!」とか、銀魂ちゃんと観てる人がいらしたら教えてくださると助かります。すいません。
むちゃくちゃ読みづらい文章だったとは思いますが最後まで読んでくださってありがとうございます。あ、じょりじょり嬉ぴっくる〜〜!!!